【シェフの独り言109】菓子作りのルーツ、祖父 門林弥太郎、父 門林泰夫のこと

皆様いかがおすごしでしょうか?
インフルエンザの勢いはすごかったですね。
冬季オリンピックも始まりました。テレビに釘付けになる日が続きそうです!

今年初めのコラムの題材として、自身の職業のルーツでもある昨年他界しました門林泰夫、
そして祖父 門林弥太郎についてとりあげたいと思います。

明治6年東京両国に開業したお菓子屋の店主 米津松造(よねづまつぞう)氏。
当時は無かったビスケットの機械をイギリスから輸入し、明治11年には製造を開始しました。
わが国では初めて製菓の機械化を試みた方です。

その方に連れられて両国の菓子屋に入ったのが僕の弥太郎おじいさん。米津氏の次男 恒次郎氏がヨーロッパ諸国を回り視察をし勉強してきた後、
弥太郎おじいさんに製法を教えたとお菓子の歴史書に記されています。
弥太郎おじいさんは後に銀座風月堂の職長になり、多くの菓子メーカーのきっかけになる人材を送り出しました。皆さん良くご存知の○○ポテトもそうですね。

昨年他界した私の父 門林泰夫は風月堂最後の暖簾分け『自由が丘風月堂』を経営いたしました。
日本国内外から数多くの賞を受け、国外ではフランス菓子組合発行の「la patisserie illustree」「Patissier moderne」誌に新しい菓子として掲載されています。
今でこそモダンなお菓子の発信はヨーロッパと思っているでしょうけれど、それまでは抽象的な造形菓子はありませんでした。
よってヨーロッパ全域に高い評価を得るにいたり工芸菓子の門林泰夫として世界に知られるようになったようです。
(余談ですが、某洋酒メーカーの会長さんから以前聞きましたが、父が洋酒メーカーに一般用の菓子用洋酒の販売をすすめたらしいです。)

父は大阪万博1970年、洋菓子のパビリオン作ってほしいとの依頼を受け「進歩と調和」という近代的な作品を作り上げました。
それは弥太郎おじいさんが海外から強い影響を受けエネルギーをもって帰ってきた時の感情と似ていたのではないかと思います。

4・5歳の頃、父に呼ばれて行って見ると、そこには丸い小さなビスケットが白い紙の上に綺麗に並べられ、鍋の中にはチョコレートが溶けて光っていました。
父は私に「チョコレートの温度はこのくらいだよ」と言って、かみ締めるように教えてくれました。今思えばこれがチョコレートの温度調整(テンパリング)だったのです。
物心つくころにはごく自然に洋菓子作りの道に入っていったと思います。

僕は自然豊かなカナダの世界的なリゾートホテル『バンフ スプリングス ホテル』の修行から帰ってきて、
自由なお菓子作りには綺麗な空気と水と広い空は欠かせないという考えから、『自由が丘風月堂』の暖簾は継がず
宇都宮に越してグリンデルベルグを開業しました。
父はいったん言ったら変えることができない頑固なところがあってよく衝突もしたけれど、グリンデルベルグをオープンした僕の考えを
理解してくれた事は本当にありがたかったです。

自由が丘風月堂を継ぐことは断ってしまいましたが、洋菓子に対しての探求心や素材が反応して変っていく化学変化、
時代の変化に反映するエネルギーなどは、弥太郎おじいさんから父 泰夫、そして自分の中に受け継いでいるような気がします。

2018年はグリンデルベルグのスタッフともども、お菓子の箱を明けたらワクワク、ウキウキを感じられるように頑張ります。
少しづつ新商品が並んでまいりますので楽しみにしていてくださいね。

欧風菓子 グリンデルベルグ 門林 秀昭
 Grindelberg=緑豊かな山